対比

日曜日に飴が降る

BETTERFLY EFFECT - 過去からの接続

(以下は2月21日に投稿しようとしてやめた記事です、時系列の狂いはそういうことです)

  

読み返してみたけれど、どうしてこうも肩に力が入った文章になってしまうのかしら。恥ずかしい。
 
関ジャニ∞『crystal』PV一部解禁になりましたね。鉱物のきらめきとダンサブルなデジタルの音色、天然と人工の対比が素敵です、フルで聴きたいな。
昨日久しぶりにエンターテインメントのDVDを少し見てたんですけど、煮詰まる息苦しさがない安心感があって。好きだなあと思いました。

書くことが思いつかない、というか何を書いてもたぶん文章が固くなる。
誰が見ているでもないのだからもっとふにゃふにゃ書けばいいのにね。


さて、ブログ記事をまだ5つも上げていないのに、初心を早々に変えようかと思う。
ポルノグラフィティの話をします。
それも『BUTTERFLY EFFECT』という、2017/11/17から2018/04/29まで行われたホールツアーの話をします。

 現在彼らは『UNFADED』というアリーナツアーを回っている最中なのだけど、ポルノグラフィティはネタバレに厳しく、ツアー終了まで内容をばらすことは禁止する旨が公式でアナウンスされている。
今回のツアーは初日に行ったのだけれど、初日に行って入る本数を増やした。増やした事実さえわたしは隠していた。わたしを知る方からしたら「あいつが増やすほどよかったということは……?」と方向性に関して予測が立つ。
まっさらな気持ちで見た初日の「嘘でしょ、うそでしょ、まだやるの」という感覚がとてもよかったから、言わないようにしていた。
 
さて、『UNFADED』は全15公演のツアーなのだけれど、当初3公演の予定だったというのに、初日を見たら居ても立ってもいられなくなっちゃって、結局8本になりそうです。このツアーに過半数入ったという事実があれば、それだけでこの先大丈夫なんじゃないかって気がしちゃったんだよ。

ちなみに残りは徳島、福岡、横アリ×2、三重×2の全6本で、あと1ヶ月ほどで終わります。そのときに何かを話したくなってもいいように、昨年2018年のポルノグラフィティの話をしたいと思う。
『BUTTERFLY EFFECT』は同タイトルのアルバム(2017/10/25リリース)を受けてのレコ発ツアーにあたるのだが、これがまたとてもよく、ツアー中に吐き出す先のないメモを書き殴った。去年の3月のことらしい。
その書き出しでは、「前回のツアーの話をする必要がある」といさらにもう1枚前のアルバム『RHINOCEROS』のレコ発ツアーである『The dace are cast』の話から始めていた。
物事には順序や成り行きがあるもんねえ。

 ここまで書いて、その文章に今から書きたいことがまとめられている気がしたので、掲載しようと思います。自分のための走り書きなので説明不足も過剰も大いにあります。
 


::: 

 

今回のツアー『BUTTERFLY EFFECT』に変に執着をしてしまっている。そのことを少しまとめたいと思う。
 
まず、前回のホールツアーダイキャスに少し触れなくてはならない。あのツアーはホールツアーとして、あるいはレコ発ツアーとしてあまりに優れていた。あの『瞳の奥をのぞかせて』は凄まじいという言葉以外でどう表現したらいいのかわからないくらい凄まじく、美しい瞬間だった。
武道館公演しかチケットが確保できていなかったわたしに、初日公演に行った友人は「どこでもいいから地方を取れ、ホールを取れ、武道館だけでいいわけがない、一刻も早く取れ」と珍しく助言をした(今更彼女とポルノの話をすることは少ないのだ)。それで慌てて仙台を取って、彼女の言いたいこと総て納得したし、まさかの2列目センターという座席で本当に大変なことだった。

 
ダイキャスは多幸感があった。それはまず『RHINOCEROS』というアルバムがどうにもならないくらい傑作で、それのレコ発だったからというのもある。正直タイトルの段階ではふーんって思っていたし、パノラマポルノのリリースのときのふーん→まあよくも悪くもないよね、という感覚がまだ記憶に新しかった。ポルノグラフィティに関して、「ふーん」はたびたび覚えるもので、それを「ふーん」で流せなくなったときにわたしは一度破綻したので、そういったネガティブな感情を認めることにした。そして、その感情の期待を上回らなくとも「裏切られた!」などと感じることのないようにした。ずっとそうしてきた。
でもライノセロスは期待を遥かに上回ってしまって、それはもとの期待値が低かったからなんだろうけれど、それでも未だにいいアルバムを作ってくれるという喜び、それが10枚目という喜びが強くて、もう。個人的には新藤晴一作詞作曲の『ANGRY BIRD』から始まり、新藤晴一作詞作曲の『ミステーロ』で終わるという流れも嬉しかった。そして、何が嬉しかったって作詞作曲が誰かを確認する前から、その2曲がものすごく好きだと思ったことだ。好きだと思って、クレジットを見たらどちらも新藤晴一だった。嬉しかった。このひとわたしの好きな曲作るんだと思って嬉しかった。
『ミステーロ』はもう少し違う思いもある。あれの曲は新藤晴一の大好きなモチーフを詰め込んだ、すごく彼らしい歌詞だと思うのだけれど、あの言葉たちを呼んだのは彼が作ったメロディーなのだということ。あのメロディーを新藤晴一が自分で作って、そこにあの歌詞を乗せたこと。純度の高さというか。この曲の完成はとても感動的なことだと思う。思っている。だからライブでも美しい流れで披露されて嬉しかった。流れで聴いて引っかかる部分のない、本当にちょうどいいアルバムだ。ライノセロス。
 

バタフライエフェクト微塵も触れていないのに10分経ってしまったよ。
以下、今回のツアー『BUTTERFLY EFFECT』の感想文です。

 
まずオープニングVJ。ポルノのホール公演で印象的なのはSWITCHツアーの春(秋は行けていない)なのだけれど、あのときは客電が落ちずにメンバーたちが登場した。今回は逆。ステージを覆うようにしていた斜幕をスクリーンにしてずっとVJと世界観に沿ったSEが流れている。縦長の斜幕4枚が横並びになっていてステージ全体を覆っている。そこに映像が投影されている。客電が落ちる前からほんのりとステージ上の照明がつきはじめ、客電が落ちてからもVJやSEは途切れることなく、その流れを汲んだまま2人のシルエットが投影される……という演出。

 シルエットが登場し、ふわっと明かりがついておふたりの姿が見えるところから始まる『夜間飛行』。たまに蝶のようなかたちになったりするあぶくがずっと上から下へと流れてゆき、最後のサビの前でブワッと下から上にゆく。上昇、浮遊するところからこのライブは始まる。幕を隔てた向こうにいるおふたりと一緒に、現実から遠いところへいくところから始まる。その後2曲目の序盤、VJが投影されたままの斜幕が半分持ち上がり、舞台の上半分を彩る。その後もスクリーンとして機能しつつ、使われたり使われなかったりする。
今回のツアーは紗幕の使い方が美しすぎて、おそらく今までのポルノグラフィティ史上最高だということが、まずこのツアーの素晴らしさのひとつだ。演出が最高だ。

 『ワールド☆サタデーグラフティ』でもう一度紗幕が使われる、ここでは4枚の紗幕の長さが少しずつ変えられており、迷路というかパイプというかネオンというか……ああ、昔のスクリーンセーバーであんなのがあったような気もするな。あれの動きが映える。選曲もシンプルに嬉しかった。懐かしいし楽しい。ちなみに甲府公演では最後のサビの歌詞を間違えていた気がする、そこは『せめて夢の中で遊びましょうか』だよ。

そしてアルバム新曲ゾーンもまたVJが美しかった。特にアーチ状というか、4枚の幕のうち両端のものが下まで、中央2枚が上部で止まるあの曲は素晴らしかった。このVJについてはもう少し時間を割いて話がしたい……と思ったけど割くほどのことは語れないな、とにかく好み。

 
そのVJが終わり、曲の流れを汲んだアウトロからの暗転、からの、岡野くんのターン。ひとりお喋りと弾き語り。
ここに関しても思うことはたくさんあるけれど取り急ぎ割愛。
さて、岡野昭仁のターンが設けられたということは、もうその時点でどうしようもない予感が酷いのだ。正直最初の公演はその予感で具合が悪くなっている部分もあった。新藤晴一のターンが、ないわけない。案の定、岡野くんが暗転しながら捌けたのち、それは始まった。詩の朗読。
ちなみに覚えてしまったので書き残しておこうと思う*1、漢字の変換は多少怪しいところもあるが答え合わせの日は近い。スクリーンに投影される詩を何度も眺めた。着眼点が好きだと思った、しんどうはるいちだと思った。
朗読後、するりとギターインストに入り、しばらく演奏。そして岡野くんがギターを持って現れる。そのまま、また詩の流れを組んであの曲の歌詞が流れ、岡野くんがアカペラのような状態で歌い始める。

つきをかうのとまよなかに。

きっと、いま最も神格化されている曲のうちの1曲なんじゃないだろうか。それを、脈絡もなく、唐突に18年目のポルノグラフィティが演奏した。アルバムのレコ発ツアーで。
ああ、好きになったときのしんどうはるいちがいる、と思った。いまでも好きだけど、わたしが好きになったときのしんどうはるいちだ、と。
このひとはこういうことをまだ性懲りもなく書いてしまうひとで、書けてしまうひとで、できる上でこの部分を使わないで歌詞を書いていたりするのだと思って、それが本当に嬉しかった。本当に今だってしんどうはるいちが好きだけれど、あの頃のしんどうはるいちもとても好きでいることを肯定されたような気持ちになった。一時期、あのしんどうはるいちを無理やり探し続けていて、うまく見つけられなくて、振り返ればほとんど暴言みたいなことを書いていたように思う。でもあのしんどうはるいちは死んだわけじゃなかったよ、たぶん、しんどうはるいちは違う挑戦をしていただけなんだよ。思春期の1年2年はあまりに長くて見守ることさえできなかったけれど、今ならどういうことなのかある程度わかる。

好きになったときの、例えばPATiPATiで表紙をやったときのしんどうはるいちがいた。そのまま『月飼い』をやった。掻い摘むとこうだ。

そこから続く『Part time love affair』、最近の曲だ。ほのかに甘いけれど悲哀の色の濃い空気は綺麗に引き継がれ、滑らかに現在へと接続する。
その後、終盤では『ギフト』が入ったが、これがまたどうしようもなく泣けた。わたしは『ギフト』の歌詞はとても「らしい」歌詞だと思っていて……具体的に言えば「最初に空を飛んだ鳥は翼を広げた格好で/どのくらい助走をつけて地面を蹴ったんだろう」の部分。あれ、とてもらしいなあって。『Search the best way』や『鯨』でも使われている、彼の好きなモチーフなのだろう。『ギフト』でも歌詞がスクリーンに投影されるのだけれど、その部分を見た瞬間に、2003年から2017-18年の接続が本滑らかに済んだ感じがした。

あの頃好きだったしんどうはるいちは、いま好きなしんどうはるいちと同一人物である。
すごく当たり前のことだったんだけど。そりゃそうなんだけど。
過去の気恥ずかしい自分のことも許せる気がした。影響されまくった小恥ずかしい頃の自分、否定も肯定もしないで見て見ぬふりをしていた。あの頃のことは恥ずかしくて表に出せないと思いながら、実際はあの頃の自分のポエミーな感じも嫌いではなくて、なんかもう上手く言えないんだけど全部がオッケーな気がした。そんな風に現在に接続されたら、過去を引き合いに出す気も起きない。過去と比べて何かを話すのは野暮ったすぎる、わかっていたことをはっきりと体感した・理解したという感覚。それが、バタフライエフェクトツアーでわたしが得たとても幸福な感覚です。ずっとそれを実感したかったのではないかとさえ思いました。

 いままでもたくさんいいライブはあったし、嬉しいセトリはあったけれど、たぶん実感をしたかったんだと思う。自分でも具体的に自覚できていなかった欲しかった感覚を、まっすぐ撃ち抜かれる心地よさったらなかった。今後また好きでいられなくなるときが来ても、今回この気持ちを覚えたことは嘘じゃないし、この気持ちを覚えたという事実があればどうにでもなると思う。今まで縋るように2005年06月19日、つまり春SWITCHを思い出していたように、今回のツアーは今後何度も思い出すのだろうなと思った。

バタフライエフェクトは、過去と今を接続するライブとして、とても優れている。18周年のいま、20周年を見据えた時期にこの公演をやるということの完璧さ。触れそびれたがアルバムもタイトルが出た段階では「ふーん」だったが、聴いてみたら満足のゆくものだった。全部が好きなわけじゃないけれどとても好きな曲がある。それで充分じゃないですか。全曲を心底愛せることなんてねえ、叶うことではないんですよ。もうわたしはなんでも受け止めて「好き」の基準を作っていたあの頃の自分ではない、それくらいわかっているし、わかっているので哀しくなったりもしない。

お互いに大きくなったよね、歳を取ったよね。これからも、都合よく近くに寄ったり、好みじゃなかったら距離をおいたりしながら、好きでいたいなあと思う。たぶん、そういう「好き」でも誰かに軽んじられたりはしないだろうし、何よりそういう自分を許してやろうじゃないか。

*1:このとき書き留めていた該当の詩の掲載は控えました

土日にみたものなど

読み返すと文体が固すぎてびっくりする。肩の力入りすぎだよ~!

 

 

Mステを見たり(階段降りないんですか?)、溜まっていたゴチを見たり、みせコドを見たり、ストラディヴァリウスで奏でられているSexy Zoneに合わせて舞うのを見たりと、どうにも中島健人づいている今日この頃、皆様いかがお過ごしですか。

 

Mステ、よかったですね。髪色がみんな違って華やかだ。トンチキ要素のないスタイリッシュな曲、素敵です。前半の角ばったような動きの振付も好き。

King Gnuに対する菊池さんのコメントにひょえ~となったり(『愛のむきだし』のプレゼンやヴィレヴァンを軽々移動する様を見て感じていた気持ちに近い、このこそばゆさが好ましい)、小ボケに自分で堪えられなくなってタモリさんに説教を求めるも無情にカットアウトでCMに突入する中島さんで笑ったり、ナイスセクシーソーリー(技)でした。

 

ゴチといえば今更ながら菊池風磨代打回を見てこれも大いに笑いました。『未成年だけどコドモじゃない』、初見でした。少女漫画原作の映画はこそばゆくなって見られないのですが、LOVEの風に吹かれ慣れたりした身としてはちっとも恥ずかしくなることなく、楽しく最後まで見られました! あれだけ丁寧に楽しく作ってあったら大丈夫だという発見もあった! 知念くんがいい役で、おいおい知念~がんばれ知念~と野次を飛ばしながら見ちゃった。

『みせコド』見終わったのがちょうど初耳学の時間だったので、そのままザッピングしたらいい音色で知っている曲が流れたので笑ったし、目を丸くさせながら踊るケンティーでやっぱり笑った。

 

いっぱい笑わせてもらってます。

 

 

そういえばようやく関ジャムのアニソン回も見た、大石さんが丸ちゃんと歌っているのは少し前まで考えつくわけのない事態だ。大石さんがかつてやっていた*1Sound Scheduleというバンドが好きで、解散したときの空気もなんとなく覚えている。『アンサー』という曲をとりわけよく聴いて……この話はまあいいか。サウスケ、ベストアルバム出ますね!楽しみ!

 

母は「君にHITOMEBORE~♪」と歌いながら米(当然ひとめぼれ)を買ったり、「価値観~のズレ~喧嘩~~」の部分だけ壊れた再生機のように歌ったりしており、少し不憫だ。

 

そういえば月刊テレビジョン読みました。5人の関係が柔らかいものであること、マリウスがケンティーをライバル視しているところ、風磨にとってのシンメだとか、なんだか嬉しくなる言葉がたくさん書いてあって素敵だなあと思いました。マリちゃんが相談できる相手がお兄ちゃんふたりで、ライバル視してるのもお兄ちゃんで、風磨はやっぱり弟だと思ってかわいがっていて、こういう素敵さを当たり前だと思ってはいけないのだろうな、でも当たり前に続いて行ってくれたらいいな、そんな風に思いました。

 

 ところで、セクゾの曲をまだ丁寧に聴き切れていなくて、自分の好きな曲を繰り返し聴いてしまうのですが、他のひとの好きな曲やオススメな曲をぜひお伺いしてみたい。

 

 

最後になってしまったけれど、中島さん、『砂の器』主演おめでとうございます。おめでとう。暗くて狂気ばしった演技が見られるのがとても楽しみです。

*1:2011年再結成、現在も活動中

愛という現象

まどろっこしい文章を書きたいわけじゃないのにたくさん前置きをしないと不安だ、曖昧な知識で何かを語ることに抵抗があるため。

といいつつ何年追いかけても半可通のままなのもわかっているので、諦めていま思っていることを順番に書いてゆけばいいのではないか。

とはいえ、現在ものすごいスピードであらゆるものを摂取しているので諸々が追い付かない。何もかもが今更なことであるのに、何から書けばいいのだ。

 

今まで何度も話題に出して消費していた上で、歌う姿も踊る姿も見て消費した上で、特に興味を抱かなかったものに突然目が行ってしまうと驚く。もう本当にこれに尽きます。

サマパラ2016聡マリソロコンにおいての松島聡の、いちばん始め登場した瞬間のステッキを持つ肘が光って見えたくらい美しいという話? 『ぶつかっちゃうよ』のケンティーと聡マリの比較? 息抜きに見た関ジャムの丸ちゃんと大石さんに手を振ってしまったこと? 鉄腕ダッシュがもはや横山さんの番組みたいで傾げた小首の角度? ああ、わがまマンガでのたうち回ってしまった話もいいですね。

 

中島健人ってすごいよなあ、と思う。あれは愛という現象なのじゃないか。誰も傷つかない優しさと、丁寧さ。それらの、おそらくは仕事で覚えていったのであろう実践的な塩梅。

最後ドライヤーで静かに応戦するという手段の選択の完璧さ、もう画面いっぱいにかわいいが広がっていて、ケンティーとよしこに拍手を送りたくなった。「傘で突かないで」とフォローを入れた千鳥ノブも含めて、なんて優しく誰も傷つかない空間だろうって唸っちゃった。

 

このあたりで話は大いにそれる。ケンティーへの尊敬に戻るはずの話題です。

 

 

愛を惜しみなく注ぐことの難しさは、愛を恐れずに受け取れるか否かにあるのではないか、と思う。

もちろん数多くの例外があって思ったようにゆくものではないけれど、原則として、愛を注げば愛が返ってくる。

つまり、惜しみなく愛してしまうとどうなるのか。愛されてしまうのだ。

 

愛されることは愛することより難しいなと感じている。

愛することはひとりでできる。見えないものこの世に存在しないもの身近な生身のにんげん、どんな対象を愛すにしたって、愛することはひとりでできる。

ひとつの点から矢印を引くこと、愛するってそんな感じだ。

 

そして、ふたつ目の点になること……その矢印の終点が自分にあると自覚すること、それが愛されることだと思う。

愛されることには覚悟がいる。

矢印の存在を否定しない、自覚的に矢印の終点になる、矢印に載せられた感情を受け止める、向けられた様々な感情を許す。これはひとりではできないことで、覚悟の連続じゃないですか。

 

愛されることは巨大な感情を相手取ること、一般人はたったひとりからの愛さえうまく受け取れなかったりするから、「本気にしてマジウケる」だとか冷笑的に対応してやり過ごしたりしているのじゃないだろうか。

ひとをむやみに愛してはいけないのは不誠実だからではない、きっと自分が消耗してしまうからだ。いや、注いだ愛が返ってこなくて消耗しちゃうのも確かによくあることだけども。

 

 

愛されることを恐れない職業の最たるものがアイドルだと思う。

しかも不特定複数の矢印を継続して受け続ける、文字通り矢面に立ち続けている。これは恐怖ですよ。でもそれを幸福だと言って笑ってみせるから、それだけでアイドルは充分美しく浮世離れしている。

 

ソロコンで、たくさんの愛が書き綴られ貼り付けられたうちわの海に飛び込んでゆく姿は誰をとっても美しくて震えてしまった。熱烈な愛の言葉の海に身ひとつで飛び込んでゆく姿は、にんげんではないもののようだ。

 

 

 

でもケンティーに対して、特に強くこの類の畏怖を感じてしまうのはどうしてなのか、正直まだわかっていない。ただ、めっちゃ愛してくるし、何より愛されることへの覚悟が大成してるなあと思う。

Love Ken TVなんてあちらから向いてくる愛が痛いとさえ感じちゃった。生き急いでいるのかもしくは走馬燈なのか(もちろん編集のせいもあるんだろうけど)、もうケンティー別の次元に上昇しちゃうんじゃないかと。不特定多数に向けられた「愛してる」がこうも苛烈に感じられたことってない。なんだろうな、なんなんだろう。

 

うーん……あれは愛する天才が同時に愛される覚悟もできていたので起こり得えてしまった現象なのではないかと推測していて、そしてこのあたりで「ケンティーは愛という現象なのじゃないか」という問いに戻ってきます。

 

愛という漠然とした単語を多用するのは宜しくないな。できればもう少し具体的に明言化してゆきたい。

そして、ケンティーが愛という現象なのかどうか、もう少しのんびり見てゆけたらいいなあ。見たいなあ。そんな風にぼうやり考えています。

 

満たしたいし満たされたいよ

ブログを書きたい。

 

 

能動的に文化を消費しに向かうという、凡庸で受動的な趣味を有している。

 

例えば音楽を聴いてライブに行くのが好きだし、定期的に通う美術館もある。どこでも自在に開けるくらいに読み込んだ本もあるし、数を見ていないが演劇も好きだ。だけど、どうにも粗だらけというか、知識のないくせに喋りたがるものだから半可通の風情がつきまとう。

特に能動性を必要としないのはテレビやアニメを見るといった趣味かもしれない。1クール10作品以上のアニメを見ていた時期もあったが、生活が変わって見ることができなくなった。

 

とはいえ、文化を消費したいという欲求は止めどないものだ。

ここでようやくあの事務所の名前が出てくる、言わずと知れたジャニーズ事務所

前々から片手間で眺めていることはしばしばあったが、気づけばクラウチングスタートの姿勢で、能動的に追いたいという欲が芽生えている。

品のない欲求の向かった先はどこか。Sexy Zoneだ。

 

 

話は遡って、経緯はこうだ。

 

日常的にいちばん顔を合わせることの多い友人はジャニオタである。

それにつられて特に興味のなかったジャニーズのDVDや少クラを見、彼女の話を聞いた。そんな生活がかれこれ5年ほど続いている。

とはいえ聞いていると愛着も湧いてきて、顔と名前が一致する人数も増える。年齢や関係性なども透けて見えてくるものがある。

そんな塩梅で、2014~2015年くらいから、彼女が推していた関ジャニ∞にぬるやかに興味を持ち始めてちょこちょこ聴いたり、冠番組(特に関ジャムは素晴らしい、地上波とは縁がないと思っていた好きなバンドたちの名前が挙がる。地上波と縁のある好きなバンドたちは出演もする。関ジャニの人柄と専門知識をほぐしてゆく丁寧さがよく合っていて、あんな音楽番組が地上波で放送されていることはとても価値があることだ!)を見るようになった。

 

こんな話を続けても仕方がないので割愛をする。

ついでにその友人の余波を受け、母はエイターになりました。のんびりと安田担をしています。

 

そして、友人は張ているアンテナが広かった。

似た者同士というか、好きだなと思ったものに対するフットワークがすこぶる軽い上に、特に推しているわけでもないグループも「知人が推していて」と詳しい。

あとシンプルにジャニーズ文化を通っていたひとなので有している前提が多い。シングル曲でなくともいい曲をたくさん知っていて話を聞いていて楽しい。

 

そんなわけで、小話のひとつとしてちょくちょく名前が挙がるのが、Sexy Zoneだった。というわけで、ここ数年、わたしがセクゾに抱いていた印象はこうだ。

 

佐藤勝利はPepperくん

松島聡はプロ、あれはプロ、松島プロ

中島健人はどうかしている

菊池風磨もどうかしている

マリウス葉いつカウコン出るの

・MとWだけでなくildも地球の裏側に連れて行って欲しい

 

そんな感じで松島プロをプロと呼び、テレビで見かけると喜んで「プロ~!」と手を振り、カウコンなどでは松島プロを筆頭に姿を見ていた。思えばプロがいる!という理由だけで特に飛ばさず見ていたのでプロはすごい。こういうところがプロはプロ。

 

遠い国のきれいな写真を見たり見なかったりするように、目に留まったときだけセクゾを眺めていた。

 

 

そんなある日、ふと見たCMで手を叩いて笑った。

「カラクリだらけのテンダネス」、もうタイトルが堪らなく好みだった。直視するには恥ずかしくバカバカしいほどの歌謡曲とトンチキの気配。好みの気配だ。遅ればせながらわたしはトンチキが大好きだ。時期的にテレビで見かけることがあるかもしれないな、と軽く思ったかもしれない。

 

そしてきっとその直後になるだろう、プロがパニック障害で活動休止というニュースを見た。胸がぎゅっとなった。岩橋くんがこの間そうやって活休したところ*1なのも知っていた。

初めてプロの字を見た。特別うまいわけではないが、丁寧に書かれた印象を受ける字だった。

 

プロのプロ意識の高さは横目でも伺えて、それゆえにプロと呼び好いていた。自身をまだ認められない様子は、パニック障害の苦しさを体感したことのある身からしても苦しいものだった。勝手に苦しがったりして、つくづく無責任な消費者である。

 

 

さて。

それはそれとして、年末は来る。特番は来る。エイターの母も準備をする。ご飯を食べながらその様子を見る。

見たい一部を除き録画を飛ばしまくる母に「見たいから再生して」と言った、『カラクリだらけのテンダネス』だ。

 

もうめっちゃ好きなタイプの曲だったんだよねこれが。

ついでに遠藤憲一も踊ってた、遠藤憲一が踊ってる! ってやっぱりげらげら笑った。遠藤憲一のこともまた漠然と好いているのだ。プロがいないなって淋しかったけれど、嫌な感じはしなかった。遠藤憲一はすごい。

以後、音楽特番があると『カラクリだらけのテンダネス』を探すようになった。

 

後日、踊っている遠藤憲一が見たくなり、あの番組を探したけれど、結局セクゾは削除してしまったようだった。

「これ面白いから残しとこっかな~」「HDDの容量ないよ~」「まあわざわざ見る機会はないか~」なんて言いながら編集をしたのはうっすら記憶にある。残しときゃよかったと思うけれど、後悔が先に立たないのは世の常だ。

 

便利なインターネットで検索をした。あの特番はベストアーティストだったことがわかった。そして放送後に日をずらして見ていたので知らなかったのだけれど、これはプロ活休の報と同日の生放送だったんですね。気づいた瞬間に背筋がつんとなった。

いるべき場所にいるひとがいなくて、ゲストがそこにいるのをどういう気持ちでファンは眺めたんだろう、批判も多そうだ……などと頭をよぎったけれど、インターネットの検索の上位にはあの放送で喜んでいるファンの姿が多数見受けられた。それがなんだか妙にほっとしたのだ。

 

外から眺めていた身としては、遠藤さんの控えめなしかし一生懸命なダンスと強面のアイドルスマイル、活休というタイミングに立ち会ってしまった外野の、外野が尽くせる最大限の気遣いのある立ち振る舞いが超好印象でますます好きになってしまったのだけれど、その気持ちはおおむねのファンの方も抱いてらっしゃるようだった。

 

遠藤憲一のファンブログか?

 

まあどうでもいい。そんなわけで『カラクリだらけのテンダネス』にハマってしまったわたしは、ひっさしぶりに入ったカラオケでその曲を入れ、PVが流れているのを見、その帰り道に近いだけが取り柄のポイントなどを集めているわけでもないCDショップで初回盤を買って帰り、メイキングDVDを見、現在に至る。

ちなみにテレビで聴いた曲がよくてCD購入まで至ったのは何年ぶりの出来事かもうまったく思い出せない。

 

時を同じくして、いつものように遊びに行った友人(ちなみにSixTONESSnow Manも好き)宅ではその日はBGM代わりにサマパラ2017が流れていて、 \This is my Miiiiiiiiiiiiiiiii/ と叫びながら洋服を破る中島健人を見て爆笑するという趣味が加わり、狂ったように『Mission』など中島健人ソロを聴き始めて、まあ現在に至る。

 

畢竟するに、設定は噂で聞いていた『Mission:K』及び『風 is I ?』を、ちょっと前傾姿勢で見たところ、どうも普段と違う心持ちを抱いてしまったという話である。初めて見たわけではなかったはずなのに。なんだこの気持ちは?

気づいたら見られる分のセクチャンをほとんど総て見ていた。そして尚、もっと何かを見たいと思っている。

 

そんな見たいという気持ちよりも、困ったことに、何かを書きたいという気持ちが生じている。

書くというのは受動的な消費が好きなわたしのなかでは珍しく能動的な趣味だ。

 

 

 

そういった経緯でいまこの文章を書いているのだが、現状この文章をアップする場所がない。なぜならidが決まらずブログを取得できないからだ。

ブログを作るより先に記事を書く者がありますか、といった気持ちなのだが、これまたタイミングよく別件で久々に連絡を取った友人がSnow Manのファンになっており、ブログを書いているのを知ってしまったので仕方がない。

 

そもそもわたしは最初の記事をこれにするつもりなのだろうか。面白みのない長文の、しかも見るひとが見たら一発で誰だかわかる文章を書いてしまった。

いちばん最初の記事は何かの拍子で人目につくこともあるかもしれないし、ブラフ代わりに違う記事を挟もうかな……などと、ブログを開設してもいないのに考えている。

 

本当は細々とした経緯がもっとたくさんあるのだけれどまとめて割愛した。割愛割愛割愛と愛を振りまきながら気づいたことは、びっくりするほどタイミングが揃っていたということ。

そういう風には軽やかに乗ってステップ踏んで踊るのがいいよね、こんな縁もあるだろう。

 

 

以上を2月13日に書いた。試行錯誤してブログを取得し、今日ようやくこれを投稿する。

*1:この記事を書いてから公開するまでの間で一部活動再開の報!

はなからままならない

ブログでも立ち上げるか、と思った。2週間以上前のことだ。

開設してもいないブログに載せればいいか、と適当に鍵盤を叩いたこともあった。わたしの趣味はタイピングである。

 

しかしどうにもidが決まらない。半端な凝り性がオッケーを出さないのだ。

どうせならはてなidとブログURL部は揃えたいし、それに映える字面がいいし。

 

最初に思いついたものはなかなかに気に入ったのだけれど、hから始まるアルファベットの列で、hatenablog~に接続するとhが重なる。httpも加味するとHHH、これは輪るピングドラムだ。保留。

 

次に思いついたものは……というより、次がなかなか思いつかなかった。アルファベット4文字のシンプルなものにしようかと思ったが、Twitterの同idが空いていなくてやめた。すぐに運用するつもりはないけれどあるに越したことはない。ちなみに最初に思いついたidはTwitterでは凍結されていた。

 

ところでブログタイトルはなんとなく決めていた、「一秒と千年」。

それならそこから決めてゆくというのも手だろう。そんなわけで1s000yにしよう。冒頭の1がピリリと効いていて素敵じゃないか。勢いでTwitterも登録した。ちなみにそのために立ち上げたTwitterNumberGirlの再結成のニュースを見てしまい、落涙していたら手持ちの時間はなくなっていた。

 

いざ、気を取り直してはてなの登録ボタンを押す、が、なぜか登録ができない。なぜだ、と思って試しに1を消してみたら登録できてしまった。そうだ、腑抜けのわたしはすっかり忘れていたが、そういえばはてなidはアルファベットから始まりという縛りがある。

 

ここでもう一度心を折った。折ったが開き直った、わかったオッケー、s000yで行こう。ちょっとこじんまりした可愛らしさや洒脱さがなかなかいいじゃないか。1を削ぎ落とすことでシュッとした感じも生まれた。高校生のように若々しいものを感じるが、これで腹を決めようとTwitterのidを変更しようと試み、ようとして既に使われていることがわかった。途端に何かが嫌になってくる。

そもそもわたしには可愛らしすぎたのだ。身の丈に合わないものだったのだ。あとsexyが透けて見える気がして妙にドキドキする。ヤメだヤメ。

 

だけれど、次の案はもう浮かんできそうにない。

お茶を濁すようにoを補い、先ほど登録したはてなを退会、再度登録。ちょっともたっとしたシルエットとなったこの名前が、結局わたしには似合うのではないだろうか。

 

こんななんでも書いちゃった記事、本当に公開するのか?

なんにせ投稿はする。さようなら、あまた浮かんだidたち。宜しくね、os000y。